この度三年ぶりの火渡り鎮火祭を勤めます。
この度三年ぶりの火渡り鎮火祭を勤めます。
去る8月17日18日と20名にて夏山登拝を使えました。両日共に御山快晴で恙無く満行しました。
Youtube「御嶽山 最大の滝 百聞滝 滝行」が公開されました。
(Youtube)
5月18日19日両日に御嶽山春山里修行を仕えました。
5月11日(土)にニノ池山荘の支配人 小寺さんが三ノ池まで昨年、再建した祠の確認に行ってくれました。無事に越冬をしました
5月8日の宗教新聞
中外日報新聞に掲載されました。
2月3日(土)星祭祈祷祭を執り行いました。
当日は30人余りの方々のお参りを賜りました。
1月20日21日と寒参り修行を仕えました。
例年ない雨降りのお参りとなりました。
寒中お見舞い申し上げます。
令和6年1月6日 大安吉日
初巳己の日に初鳴動釜神事を執り行いました。
この度の能登半島地震により被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます
被災地の一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。
----
令和5年8月19日20日と髙針心願講の夏山登拝に合わせ三の池白龍王祠竣功開眼。
御嶽山金峰山出生元組教会総本部の嶋田教会長御一行様の助法を賜り執り行いました。
一昨年より木曽御嶽山剣ヶ峰頂上の胎蔵界大日如来像と三の池白龍王祠再建立を誓い勧進を二百余名の寄附者を以て心一つにし7月9日に大日如来像開眼と8月20日に白石の光輝く祠芽出度竣工す祝賀を迎え此の時を以て満願成就致しました。
大変お世話になりました。ありがとうございました。
祠には三の池摩利支天、三の池白龍王、初春姫龍神、御眷属の龍王衆を勧請し縁ある行者衆、関係者、寄附者喜びの想い心一つに謝恩謝徳の丹誠を抽んじ満願の開眼修法し摩利支天法力増進、龍神龍王威光倍増、天変地災害封じ、御神水霊薬万倍、御山繁栄、寄附者一同各願成就、満願謝徳。
7月9日の「頂上剣ヶ峰大日如来像再建立開眼」と8月19日20日の「三の池白龍王様祠再建立開眼」について専用ページを公開しました。
専用ページはこちらです。
----
高針心願講立講100周年記念の専用ページはこちらです。
登拝行の専用ページはこちらです。
佛窟霊場の秘仏薬師如来御開帳の専用ページはこちらです。
木曽御嶽山剣ヶ峰頂上の🚻トイレについて。
噴火以降、トイレが無い状況が続いています。
今夏山より避難所施設の中に設けられます。
↓詳細
御岳ロープウェイ運営会社変更となりました。6月20日より営業開始。
【公式】ONTAKE Ropeway|おんたけロープウェイ・長野県木曽御嶽山
5月13日14日と講社の御嶽山春山登拝でした。
病み上がりの身体に鞭をうち参拝することが出来ました。
妹も結婚以来、30年振りのお山
十二権現様御宝前では大泣きし。
霊神場では祖父の霊神碑前で泣き崩れ
幼い頃、祖父と過ごした日々
先祖を敬う心
妹の胸の思いが大粒の涙となり流れ祖父との対面をはたす事が出来きました。
人々は色んな思い持ってお山詣をする。
良き春山となりました。
祈りの山 霊峰御嶽山。
御嶽山信仰の歴史は、遠く平安・鎌倉・室町時代に興った民間信仰と山岳信仰が結びつき、御嶽山も最初は修験道の場として独自の山岳信仰として栄えるようになったといわれています。そして徐々に厳しい修行を重ねた道者といわれる人々が集団で登拝することが風習となりました。そんな中、1784年(天明4年)に尾張の行者・覚明(かくめい)によって三岳村の黒沢口が開かれ、続いて1794年(寛政6年)には武蔵國の行者・普寛によって王滝口が一般民衆に開放され、これを機に木曽周辺で留まっていた御嶽信仰が全国的な信仰へと広がっていきました。
そして明治維新後、神道がわがくにの宗教とする祭政一致の政策がとられ神仏分離が進められることによって、仏像や仏具を持って社前に祀る神社が改められることとなりました。御嶽神社もこれに習い、仏教関連のものを除きましたが、もともと御嶽信仰は御嶽山そのものを信仰するもので、ここを訪れる人は御嶽神社を中心に強く結ばれており、その後も宗派を問わず、独自の講社として神仏混合の形を取りながら今も有数の山岳信仰の場として存在しています。
覚明行者は、享保4年(1719)現在の春日井市牛山町で生まれました。俗名を丹羽仁右衛門(にわじんうえもん)といいます。20代で出家し、四国の霊場を幾度も巡礼するなど修験者として厳しい修業を続けていた覚明は、7回目の巡礼中の明和3年(1766)、高知県の山中で法力を得て、覚明という名と鉦鈷石(しょうこいし)を授かりました。 その際「信濃国の御嶽山を開け」という神のお告げを受けて郷里に帰った覚明は、まず恵那山を開き、ついで後御嶽山開山をめざしました。村の庄屋などから激しい迫害を受けましたが、覚明はそれに屈することなく、天明5年(1785)ようやく御嶽山開山を果た。
普寛行者は享保16年に武州秩父郡大滝村の落合という所で、木村信次郎の子として生まれた。幼名を好八といい、幼にして浅見家の養子となり、長じて左近と称した。少年の時代より剣法を好み、その業は相当進んでいたようである。のち江戸に出て八丁掘の法性院を頼って剣道、漢学に励んだといわれている。 明和元年8月致仕して郷里に帰り、三峯山に登り観音院の日照の門に入り、剃髪して普寛と改め修験の道に励むこととなった。師のもとにあること3年、その間台密二教の奥義を究め、明和3年8月権大僧都に昇格し、本明院と号し、再び江戸に入り、先師法性院の法統を継いだ。院は聖護院派に属していた関係から、府下の聖護院派の修験長となり、天明2年10月伝燈阿閣梨に進んだ。52歳のときという。しかしながらこの年「其の志にあらず」といって修験長の職を退き、「庶人の為に病厄を戒除する」と称して深山にこもって木食、水飲の修行に努め、その後諸国周歴の旅に出たといわれている。 この後また江戸に帰って八丁堀の法性院に住んで剣道の指南などもしていた。江戸八丁掘の法性院にあって、剣法指南の傍ら、庶民のために病気その他の祈祷をおこなっていたもののようで、京橋八丁掘の和田孫八方(後の明岳院広山)で石に呪文を唱えながら少女のあざを治したといったことが江戸市中の評判となり、後に御嶽登山の同行として加わった住吉町の三河屋庄八、高砂町の秩父屋歳次などの当時の有力な商人たちの帰依を受けるようになったものである。行者の御嶽登山の動機について諸書はみな四国辺路の途上老僧から御嶽登拝のことを授けられたことにしているが、しかしこれは後になって伝説化されたもので、寛政2年5月に秩父にあって、木曽王滝村出身の日雇頭与左衛門の失明を救ったときの与左衛門の話に暗示を受け、前記の記録のように寛政4年6月、三河屋庄八等とともに、与左衛門を頼って王滝村を訪れ、ついに王滝口からの新ルート開拓に成功するに至ったものである。 しかしながら、与左衝門は御嶽登拝の経験がなかったので、翌寛政5年の第2回登山には、同じ王滝村の出身で江戸霊岸島の材木商桝屋庄三郎方で代人として活躍していた吉右衛門を案内に頼んでいる。吉右衛門は後に普寛の四天王といわれ吉神行者と称した人である。当時与左衛門もそうであったように、木曽山で杣、日雇などの仕事に携わっていた人々の中で、優秀な技能を持った者は、木曽谷を出て、他地方の伐木運材の頭領となったり、江戸や名古屋の材木商の代人や番頭等となって出向して活躍している例が多く見られるが、吉右衛門もその1人であり、江戸に出ていたものであることが知られる。しかして吉右衛門は与左衛門と違って、郷里王滝村にあった当時道者として御嶽登拝の経験を持っており、普寛行者がこわを見込んで第2回の登山から、案内人として強引に頼みこんでいることがうかがわれるものである。 行者はその後、御嶽講社の結衆に努め、江戸を中心として関東地方1帯に広く御嶽信仰を押し広めたが、さらに越後の国の八海山、武蔵の国の意和羅山、上野国利根郡の武尊山も開闢し、その分神を御嶽山へ勧請している。享和元年9月、布教の途上、武州本荘宿の米屋弥兵衛方に止宿し、滞在中病気となり9月10日「なきがらは いつくの里に埋むとも 心御嶽に 有明の月」の辞世の歌を遺して遷化した。行年71歳。その遺骨は遺言によって、御嶽山麓花戸と郷里三峯山麓、遷化の地本庄宿、それに江戸法性院墓地に分骨埋葬された。行者の50年忌の嘉永元年6月、王滝村花戸に江戸高砂講によって「開闢木食普寛行者」の碑が建立されている。『西筑摩郡誌』には「夫れ御嶽の開道ありしより、未だ百年に満たずして、信徒日に増加し、所在社を結ぶもの二十八州に渉り、例歳登山する者六万を下らず、昔日の寒郷今乃ち福地となり、附近亦其沢を受く、是全く普寛の功徳に頼る衆尊崇以て霊神となす。」とその御嶽信仰全国普及の功績を顕彰している。「御嶽の信仰と登山の歴史」-生駒勘七著(第一法規
親鸞山(しんらんやま)は、名古屋市名東区猪高緑地内にある。東谷山(とうごくさん/198メートル)に次ぐ名古屋市第2位の高さ(111.6メートル)の山。元の呼称は「極楽山」であったが、この山頂に巨大な親鸞像(台座を入れて約34メートル/「座像66尺・座台48尺」)を建立する計画(昭和4年4月、起工予定/寄付金が集まらず頓挫/日進で宗教公園「五色園」ができる)があったので、いつしか「親鸞山」と呼ばれるようになった。
高針御嶽山(親鸞山)昭和24年当時の親鸞山山上高針心願講社は、浅井勝次郎氏(寛開霊神/かんかいれいじん)が発起人となって、大正10年8月に設立され、昭和24年10月8日、親鸞山山上に鳥居とささやかな本殿(写真右上)ができた。今は木が生い茂っているので眺望はきかないが、昭和24年当時は小松の生えたやせ山で、晴れた日に遠く御嶽山や名古屋港を望むことができた。昭和34年の伊勢湾台風で社殿や参道が荒れると、大鐘明氏(明東霊神/めいとうれいじん)が中心となって土木建築の技術者を組織化し、昭和45年5月、講員の手造りによって現在の社殿と参道が完成した。元旦には御神酒(おみき)が出るので、「初日の出」を拝む為に多くの参拝者がある。 高針心願講は、岩作(やざこ)心願講に属してはいるが、独自に村の中で活動している。「高針御嶽山開設」資料 高針御嶽山開設の事 場所高針東方極楽山上 右開設に当り、兼て依り心願講高針講員は、高針地内に行場と定む可く、御嶽大神を御祭り上げ度き意向の時、高針開墾組合で開墾記念事業として何様かを祭り度き考案中なれば、講員に合意あれば相談の上へ御嶽大神を祭る気は無いかとの事を当時組合顧問浅井兵馬氏依り話し有り。
願ひ叶ったりで、早速話し進めて戴き幸ひにして急ぐ話しなりしは、時の組合長加藤時三郎・副組合長佐橋信壽両氏始めとし、組合役員及組合員諸氏の協力大なるものより開山と進む。事が出来て講員一同嬉び、又大なるものの中に昭和二十四年八月着手、今年拾月八日に初の祭り事目出度行へり。其の当日、組合講員の立場の互意からとて不備の点出ずる為、後難を無くする故へに合意相談の上へ、今後祭り事は御嶽講員主體とし一切をまかせ祭事に誠心助力に当る事を定めたもの。後年における役員諸氏及組合員は心安らかに、地元は勿論、字人等の幸ひを祈念し開墾組合記念事業を以てす。此の山を益々栄、後世に残す記念事業を次々と御協力あって記録を綴らるやう書き残す。
寛開行者は、かねがね御嶽信仰に心を寄せてお参りをし一心行者(林甚太郎)を師として伝授を受け大正十年に高針心願講を立講し初代先達となる。昭和25年に高針御嶽山山上に祀る。
昭和42年夏山登拝
昭和42年夏山登拝
明東行者(大鐘 明)は大正15年に高針心願講入講する御年15歳である。一心行者や寛開行者を師として伝授を受け、当時は貧しく親を医者に診察してもらうお金も無く父親の病気を治したいために御嶽大神に祈願をし、それ以来、御嶽山の信者となり中座修行に励みました。昭和34年の伊勢湾台風により社殿もいたみ参道も荒れ果て昭和45年に社殿再建に尽力する。世のため人のために仕え二代目先達として82歳で去り御嶽神社から大先達号が授与されました。
三代目先達山田 隆雄は、明東行者を師と仰ぎ中座として行に励み高針心願講の発展に尽力しました。
岩崎御嶽山
岩崎御嶽山本社殿
開祖殿
尾張國岩崎村、岩崎御嶽山は萬延元年に鎮座にして開山は、明寛行者(丹羽宇兵衛)明心行者(倉地茂兵衛)の両名が西国巡礼の砌、美濃國谷汲山にて霊夢に覚明行者が現れ尾張國愛知郡岩崎村竹之山と云う霊山あり此の山に御嶽大権現を勧請すべし是諸人信仰及び御山繁栄福寿増長をとらすべしとの神勅によって岩崎御嶽山の開山の命を受ける。そして、岩崎御嶽山は「岩崎御嶽に三度登れば木曽の御嶽に一度登ったことになる」と伝承される東海地方最大の御嶽霊場である。『岩崎御嶽山縁起』より。のちに、木曽の御嶽山に次ぐ霊山なり「尾張御嶽山」と称された。
開山当時の石神①
開山当時の石神②
岩崎御嶽山奥の院からの木曽御嶽山
儀覚行者
不動院 儀覚行者(武藤清六)明和6年(1769)~天保12年(1842)は、御嶽講の源流のひとつを築いた尾張熱田の宮丸講の祖で文化8年(1811)頃、普寛行者の中座を務めた明岳院廣山行者に師事したと伝えられ、以降「不動院」を号している。
明寛行者
明心行者
明寛行者(丹羽宇兵衛)文政5年(1823)~明治13年(1880) は、16歳で儀覚行者のの指導の下に御嶽登拝し19歳で古伯の下、御嶽登拝し先達として修行している。
明心行者(倉地茂兵衛)天保7年(1837)~明治44年(1911)古伯の実子は、11歳で古伯の下、御嶽登拝し先達として修行している。
『佛窟開創縁由』は、昭和十六年に林一心行者自ら記されたもので、高針心願講が所蔵している貴重な佛窟(仏穴)の由緒がわかる文書です。この文書によれば、昭和三年八月十九日夜、大峰山での修行を終えて帰名した林一心行者と心巴組の先達一行は、副講元三輪房次郎氏の自宅神前にて、副大先達寺田浅吉氏、副講元一柳十寸穂氏の他、青木吉次郎氏ら十余名が集まり、祈願円満の副行として千巻経(心経千巻読誦)を行っていました。その際に、寺田浅吉氏を中座(文書内では「霊媒」)として、王滝開闢、本明院普寛行者が降座されました。その御座において、普寛行者は、王滝口里宮後方の岩窟についての託宣を下されました。そこには、薬師瑠璃光如来、十一面観音の二仏があり、これを御嶽山座王権現の脇持仏であるとし、この岩窟を開創するように神勅を下されたのです。その開創を命じられたご神勅に、普寛行者は、あわせて病気に効のあるお告げを下されています。『佛窟開創縁由』に次のように記されています。
今剣ケ峯御神鏡誠ニ所以有ル哉恐レナガラ惟レバ醫王如来ノ徳高クシテ五濁乱漫ノ下根ノ人ハ座王權現ト化シテ水火盗兵難及病患横死等諸難ヲ祓ヒ玉フ別テモ眼病患者ニ左ノ御神歌ヲ唱エテ一心ニ祈願スレバ必ズ全治セシムト御誓ヒナリ
心巴組の先達一行は、普寛行者からのご神勅を受けて、早速王滝に出向き、胡桃澤光一氏(現在の胡桃沢旅館の先々代)に案内を頼み、同二十六日、林一心、寺田浅吉氏、松井米四郎氏、伊藤善弌氏、木村忠七氏ら同行のもと、胡桃澤光一方へ出向いてみたところ、池田行者も居合わせ、神勅について伝えると無常の光栄と歓喜して直ちに沐浴斎戒して諸事の用具を整え、一同は予め聞いていた方面へと出かけられました。ただ細かい所在がはっきりと解らず、村の古老に尋ねてようやく判明しましたが、案内はできないといいます。理由を尋ねると、その場所に行って草木に触れるだけでも悪寒を覚えて寝込んだ者が何人もいたため、現在では誰も近寄らないというのです。山の下の離れたところから、その方向の指示をしてもらい、奥深い山へ分け入り、木を伐り草を刈りしながら、万難を排してようやく現場に辿り着くことができました。すると、そこには、巨大な岩窟が現れ、一同は大いに感激したそうです。林一行行者は、「我に至大使命ヲ蒙リテ講社ノ譽レ身ノ光瑩之ニ過ギタルハナシ金剛不滅ノ信念ヲ以テ窟内ニは這入り敬禮シテ同行ヲ呼ビ入レ」と記されているように、先頭を切って岩窟に入られました。窟内を調べてみると正面に三社、お告げの通り面前に木像が二体安置してあるのを拝したす。ここで護摩供、経典読誦、応急施設を行い、今後は総員一心に御山繁栄信者の広大増進を誓って退下し、その後、同志に謀って心願講心巴組と胡桃澤光一氏の共同管理としました。
参道の開設や窟内諸般を施行して、ついに昭和四年初夏竣工、同年七月二十九日に式典を厳修したとあります。また、記述には、普寛行者のお告げにもあった病に効く験について、以下のように記されています。
御神勅ニ依リ佛窟向カツテ左の岩間ヨリ滴ス御神水ハ薬師瑠璃光如来御授興ノ御慈悲ナル如何ナル難治眼病モ即チ全治ス
佛窟向かって左ニ降下シ数十間行キタル所ニ社祠アリ日光佛月光佛御鎮座其下ヨリ神水湧出ス胃病第一トシテ諸病ノ効驗著大ナリ世ノ人皆一心ヲ以テ祈願圓萬全快セラレヨ尚製薬者に此水ヲ用ユベキ宣傅セラレヨ
現在のところ、この御神水が湧出している場所は、確定するまでには至っておりません。しかし、それほどのご利益のある霊場であることは間違いないことで、一心行者曰く、製薬者にこの水を使うようにと大いに宣伝しないさいと言われるほどのありがたい御神水が湧き出るような、とてもありがたいご利益のある霊場です。
多くの皆様が、このありがたいご利益を授かって、益々の繁栄をみること願ってやみません。
林一心行者は、明治後期から昭和初期頃にかけて、尾張・三河に広がる大規模な心願講の躍進を牽引し、講の行法を再編して、多くの門下へと伝授し、後継者を育成、講中にその名を知られた行者です。多くの門下の先達・行者、講員、信者をまとめられ、大正期頃からは、心願講の副大社長をつとめたほどの大先達でした。
また、御嶽山のみならず、各地の霊峰霊山で修行を積み、昭和初期には、大峰山の喜蔵院に属していた心巴講という講社が衰退していたのを見かねて、この講社を引き受けて心願講心巴組として、自らの講に組み込みました。後には、心願講の各講のなかでも、多数の先達・行者、講員を擁する一大勢力の講として、多くの門下の先達や講中を輩出しました。
高針心願講もそのひとつで、一心行者の法灯を受け継ぎ、現在も活発に活動することができておりますのも、一心行者のご遺徳があればこそと、感謝してもしきれないの思いでご縁を頂戴し、一心行者縁の霊場の再興と今後の維持に仕えさせて頂いている次第です。
当高帝龍王神様は、現在の御社の裏に樹齢三百余年、樹廻り五米の黒松の大木が生えていて、其の木が枯れて朽ちて穴が出来て、其の中に龍王神様を始め子孫の蛇が住みつかれ、祭年の春には幹や枝に沢山の蛇が出て居られたので、近在近郷から見物客で大賑わいになったのでございました。そこで祭主が、皆様方の御賛同御協力を賜り、昭和拾五年四月、御奉祭しました。其の後は不思議な事に、龍王神様始め子孫の蛇の御姿は見え無く成りました。以後、無病息災、商売繁昌、一切の厄除け心願成就の守護神として、皆様方が御参拝に御見えに成られる様になりました。
鎮座地 名古屋市名東区猪高町大字高針山ノ中 創建年昭和28年11月27日
昭和28年夏、あい愛知カンツリー倶楽部ゴルフコース建設に従事する人達が大白蛇を目撃した。大白へ蛇は五合池の面に姿見せて泳いだ。目撃者は40人以上で恐怖のあまり、悪感、発熱、数日床に臥せじも地元高針では1日早く白蛇をお祀りして村の隆盛とゴルフコース工事の安全を祈ろうという声が高まり地元の御嶽行者の祈祷によれば、これは霊妙なる神通力を有する白蛇にしてこの地の棲む。既に江戸時代に出現せられたる。ゴルフコースの建設でだんだん棲み家を狭められ、ついに人前に姿を現してしまった。龍神として祀れば姿を消し祭祀怠らずは祭神として永く池に潜み大願成就の神力を発揮するものなりとの御神託を得たり。この神社建設には地元の人々だけでなく、当時の愛知県知事桑原幹根氏の働きにより愛知県の財界からも寄付を集め五合池を見下ろす丘の上に造られました。毎月27日を以て縁日と定めはる春4月秋9月の二回大祭を行うものなり。
(動画)
(動画)
(動画)
(動画)
(動画)
(動画)
(動画)
(動画)
初めまして、髙針心願講のホームページにようこそ。
平成二十六年九月二十七日 木曽御嶽山噴火で、お亡くなりになった方々のご冥福をお祈り申し上げます。
高針心願講は尾張名古屋の東部の猪高緑地内にあり。名古屋市第二位の高さ(11.6メートル)の山頂に御嶽大神や霊神をお祀りしてあります。 お籠り堂は、豊かな自然に囲まれ護摩を焚き加持祈祷を修めている木曽御嶽本教所属の講社であります。お陰様で立講100年を迎えこの佳節を記念してホームページを開設致しました。
神職先達が、神仏にお取り次ぎし地鎮祭、解体祓い、新車のお祓い、星祭、厄除け、家祈祷等を受け付けています。
高針心願講は、お祓い、地鎮祭の御祈祷を承ります。お問い合わせにつきましては、下記フォーマットにご記入頂き、「送信」ボタンを押しご確認の上、送信してください。
令和6年度の年間行事予定表をお知らせいたします。
月日 | 行事 |
---|---|
1月1日 | 元旦祭 午前0時~ |
1月7日 | お鏡開き 17時~ |
1月20、21日 | 寒参り |
1月27、28日 | 星祭準備 |
2月2日 | 星祭準備 |
2月3日 | 星祭祈祷祭 10時~ |
2月18日 | 月次祭 |
3月3、17日 | 月次祭 |
3月30、31日 | 知多四国巡拝 |
4月6、7日 | 準備と春季大祭 |
4月21日 | 月次祭 |
4月27日 | 白美龍神春季大祭 |
4月29日 | 弘法大師御正當 |
5月5、19日 | 月次祭 |
5月18、19日 | 春山登拝 |
6月8、9日 | 百間滝登拝 |
6月2、16日 | 月次祭 |
7月7日、21日 | 月次祭 |
8月4日 | 月次祭 |
8月17、18日 | 夏山登拝 |
9月1、15日 | 月次祭 |
9月22日 | 白美龍神秋季大祭 |
10月5、6日 | 準備と大祭 |
10月20日 | 月次祭 |
10月27日~ | 開白 |
11月2日 | 火渡り前行 |
11月3日 | 火渡り鎮火祭り |
11月4日 | 火渡り片付け作業 |
11月17日 | 月次祭 |
11月24日 | 白美龍神大掃除納会 |
12月1日 | 月次祭 |
12月15日 | 高針御嶽山大掃除納会 |
12月21日 | 一心行者霊神碑掃除 |
12月31日 22時~、令和7年1月1日 | 大晦日と元旦祭 |
1月未定 | 白美龍神初鳴動釜神事 |
1月18、19日 | 寒山登拝 |
1月25、26日 | 星祭準備 |
1月26~2月2日まで | 寒行修行 |
2月2日 | 星祭祈祷祭10時~ |